【結論】麻生要一郎さんは、自分が借りた部屋の大家だった80代の姉妹と養子縁組をしています。もとは他人どうしです。
- 上京前から「北参道か千駄ヶ谷に縁がある」と言われていた
- 不動産会社経由で決めた部屋の大家が、まさに高齢の姉妹だった
- 会ってすぐ「養子にならない?」と姉妹の側から持ちかけられた
- 麻生さんは10代のとき、祖父の養子に入った経験がある
- NHK Eテレ「ネコメンタリー」出演は8月21日(金) 22:30〜
麻生要一郎さんのプロフィールには、「その後、とある姉妹の養子となる」という一行があります。
読み飛ばしそうですが、内容はかなり変わっています。
血のつながらない80代の姉妹と、40代の男性が親子になったという話だからです。
本人が雑誌の取材で語った内容をもとに、順番に見ていきます。
- 養子縁組にいたるまでの順番
- 姉妹はどんな人たちだったのか
- 麻生さんが戸籍にこだわらない背景
- そのあと介護がどうなったか
【予想】なぜ迷わず引き受けられたのか
ここからは編集部の予想です。
戸籍が動き、名字も変わります。
ふつうなら持ち帰って考える話を、麻生さんは「それもありか」で決めています。
この速さの理由を考えました。
先に答えを書くと、
麻生さんにとっての家族は、書類ではなく食卓の側にあったからだと予想します。
理由を7つ並べます。
理由1:養子縁組は初めてではなかった
これがいちばん大きいはずです。
麻生さんは父の死をきっかけに母の戸籍から抜かれ、祖父の養子になっています(天然生活web)。
理由は「遺産のあれこれの関係らしい」とのこと。
10代でこれを通っているので、手続きへの心理的な壁が低かったと考えられます。
理由2:戸籍が離れても母子関係は続いた
そのときのことを麻生さんは「戸籍上は離れても、僕と母は間違いなく、家族でした」と語っています。
書類が家族を決めるわけではないと、身をもって確かめている。
だから戸籍は「ペーパー上のもの」という認識になった、と本人が説明しています。
理由3:当時、身動きを止めるものが無かった
母を看取ったあとの麻生さんは、両親を亡くし、生家との縁も切れていた状態でした。
本人の言葉では「まったく僕を縛るものがなくなったところで」。
反対する人も、気を遣う相手もいません。
理由4:姉妹の側も身寄りがなかった
姉妹が言ったのは「あなた、ご両親もういないんでしょう? 私たちもなの、一緒よね」という一言でした。
助ける・助けられるの関係ではなく、お互いに空いている席を埋め合う話です。
対等さがあったことが大きいと見ています。
理由5:宿の時代に「擬似家族」を経験している
新島の宿では毎年スタッフの顔ぶれが変わりましたが、ひとつの食卓を囲んでいると擬似家族のような感覚が生まれたと麻生さんは話しています(天然生活web)。
血がつながらない相手と家族になる感覚を、仕事のなかで何年も味わっていたわけです。
理由6:自宅を「第二の実家」にしたい人だった
麻生さんは別の取材で、自分の家を「第二の実家」と思ってほしいと語っています(再春館製薬所「私らしく。」)。
家族の枠を広げようとする姿勢が、もともと言葉として出ている人です。
理由7:予言めいた話が当たっていた
麻生さんは知り合いから「北参道か千駄ヶ谷。おばあさんが見える。最終的に家賃も要らなくなる」と言われていました。
実際にたどり着いた部屋が千駄ヶ谷で、大家が高齢の姉妹。
本人が「伏線がどんどん回収されていく状態」と書いているとおりで、これが背中を押した面はあると思います。
ここまではあくまで編集部の予想です。
本人が「この7つで決めた」と説明したわけではありません。
縁組までの順番
母を看取り、猫のチョビと東京に出た麻生さんは、住まいを決めかねていました。
そこから話が動きます(天然生活web)。
| 順番 | できごと |
|---|---|
| 1 | 上京したが、住む場所が決められずにいた |
| 2 | 知り合いに相談すると「北参道か千駄ヶ谷。おばあさんが見える。最終的に家賃も要らなくなる」 |
| 3 | 不動産会社を通じて、まさにそのエリアのマンションに決まる |
| 4 | 大家は東京生まれ育ちの姉妹。当時80歳 |
| 5 | 出会ってまもなく「養子にならない?」と提案される |
| 6 | 「それもありか」と受け入れる |
| 7 | のちに姉妹の介護を担うことになる |
こうした出来事は、麻生さん自身のエッセイでもくり返し書かれています。
放送のあとに文章でも読みたい方は、著書から探すのが早いです。
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姉妹はどんな人たちか
記事によると、姉妹は東京で生まれ育ち、銀座で店を営むなど華やかに過ごしてきた人たちです。
麻生さんは「姉はとにかく自由。妹はほんのちょっとだけ、控えめかな」と表現しています。
氏名は明かされていません。
提案の目的もはっきりしています。
マンションを継いでほしかったのです。
親しい親戚がほとんどおらず、顔も知らない人に相続されるくらいなら、自分たちで見つけた相手に生まれ育った土地を渡したい、という考えでした。
ここで「お告げ」の最後「最終的に家賃も要らなくなる」がつながります。
相続する立場になれば、家賃は発生しません。
本人も予想外の形での的中だったようです。
介護のときに姉妹が言ったこと
麻生さんは縁組の時点で、「介護というかたちで、彼女たちの面倒を見ることになるのだな」と覚悟していました。
ところが姉妹の側にその意識はまったく無かったそうです。
実際に介護が必要になったとき、姉妹は「ごめんね、こんなことになるなら養子なんてやめておけばよかった」と言ったと書かれています。
提案したときの言葉は「あなたにこのマンションをあげる。でも、そんなに重く考えないで。困ったら、さっさと売っちゃって好きなようにしていいから!」だったそうです。
最初から重荷にする気がなかった、ということでしょう。
麻生さんが姉妹の話をするときの明るさは、この距離感から来ているように読めます。
気をつけたいポイント
| まちがえやすい書き方 | 確認できる範囲 |
|---|---|
| 財産目当ての縁組だった | 言い出したのは姉妹の側。麻生さんは介護を引き受ける前提で応じている |
| 姉妹は遠い親戚 | 血縁はない。出会いは大家と入居者として |
| 養子になったのは今回が初めて | 父の死後に祖父の養子になった経験がある |
| 姉妹の名前が公表されている | 氏名は伏せられている。写真と人物評だけ |
| いまも姉妹と一緒に住んでいる | 現在の状況は公表されていない。取材は『天然生活』2024年9月号のもの |
よくある質問
Q1. 名字は変わったのですか?
養子縁組をすれば戸籍上の氏は変わりますが、表に出ている名前はずっと「麻生要一郎」です。
著書もNHKの表記も同じです。
戸籍上どうなっているかは公表されていません。
Q2. 姉妹は今どうしていますか?
公表されていません。
取材の時点で介護が必要になっていたことは語られていますが、その先は書かれていません。
推測で埋められる話ではないので、このページでは触れません。
Q3. 千駄ヶ谷の部屋には今も住んでいますか?
NHKの紹介文に「現在の千駄ヶ谷のマンション」とあるので、放送時点でも住んでいると読めます(NHK番組公式)。
ただしNHKはその部屋を「チョビがもたらした縁」と説明していて、雑誌の「お告げ」の話とは角度が違います。
Q4. 「お告げ」をした人は誰ですか?
明かされていません。
記事には「知り合い」とだけあり、名前も職業も書かれていません。
その人からは以前から「北参道か千駄ヶ谷に縁がある」と言われていたそうです。
Q5. 実のご家族はどうなったのですか?
父は麻生さんが19歳のときに他界しました。
母は乳がんが再発し、麻生さんが新島の宿を閉じて水戸に戻って看取っています。
養父になっていた祖父も、26歳のときに見送りました。
Q6. 番組でこの話は出ますか?
放送前なので分かりません。
ただNHKの紹介文は麻生さんの歩みを「数奇とも言える人生」とし、千駄ヶ谷の部屋にも触れています。
家族の話に入る可能性はあると思います。
まとめ
麻生要一郎さんは、東京で借りた部屋の大家である80代の姉妹と養子縁組をしています。
言い出したのは姉妹のほうで、生まれ育った土地を顔の見える相手に託したかったのが理由でした。
麻生さん自身も、父の死後に祖父の養子に入った経験から、戸籍を「ペーパー上のもの」と受け止めていたと語っています。
血のつながりではなく、同じ食卓を囲むことで家族になっていく。
この考え方は、新島の宿でスタッフと食事をともにしていた頃から変わっていません。
8月21日(金)のNHK Eテレ「ネコメンタリー」でも、その半生が取り上げられます。

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