【結論】折井宏司さんの経歴は「東京のIT営業→26歳で家業→倒産寸前→世界へ」です。
富山県高岡市にある着色工場モメンタムファクトリー・Oriiの代表。
高岡銅器 仕上部門の伝統工芸士で、
青い金属板「Oriiブルー」の生みの親です。
- 生まれは1970年・富山県高岡市/放送時点で56歳
- 夜学生の頃から東京のIT企業で営業をしていた
- 1996年・26歳で高岡へUターン
- 入社直後に売上が最盛期の半分以下へ落ち込む
- 2000年ごろ、1mm以下の銅板への着色に成功
- 登場するのは8月29日(土)朝5時20分・テレビ朝日
- 折井宏司さんの経歴を時系列で
- Uターンを決めた理由
- 危機のときにやったこと
- 8月29日の放送情報
テレビ朝日「日本のチカラ」、
2026年8月29日(土)朝5時20分からの回に出るのが
折井宏司さん(56)です。
番組情報の肩書きは「高岡銅器の着色工場3代目」。
放送前に、これまでの歩みを並べておきます。
【予想】IT営業だった人が職人として通用した理由
ここからは編集部の予想です。
東京で営業をしていた人が、
26歳から金属の着色を始めて世界に出る色を作りました。
普通は「遅すぎる転身」に見えます。
結論を先に言うと、
「産地の常識を持っていなかったことが武器になった」と予想します。
ポイント1:戻ったタイミングが早い。
Uターンは26歳。
doors TOYAMAの取材で本人が「職人になるには少しでも若いうちが良いのでは」と語っています。
手の技術は、始めた年齢が結果に直結します。
ポイント2:選択肢が少なかった。
折井さんは長男で、ほかに継ぐ人がいませんでした。
迷える幅が狭いほど、決断は早くなります。
「いつか」を先送りにしなかった点が大きいはずです。
ポイント3:入った直後が最悪期だった。
1996年に入社し、1998年・1999年には売上が最盛期の50%以下に。
自身の月給は15万円、父は無給だったといいます。
守るべき既得権がなければ、やり方を変える抵抗も生まれません。
ポイント4:危機感が数字ベースだった。
本人は「自分の代で会社を潰してしまうかも…」と思い詰めたと振り返ります。
気分ではなく売上を見ての判断です。
だから打った手も精神論ではありませんでした。
ポイント5:家の外で学び直している。
高岡市デザイン・工芸センターで素材特性・原型づくり・鋳造方法・仕上げを習得。
親から見よう見まねで覚えるルートを取っていません。
基礎を体系で入れ直したことが後に効いています。
ポイント6:着色する対象を変えた。
高岡銅器の着色は本来鋳物に施すものでした。
折井さんが向かったのは1mm以下の圧延板です。
産地の「当たり前」を知らない人だからこそ、そこへ手が伸びたと予想します。
ポイント7:売り先を自分で探しに行った。
2009年から東京インターナショナル・ギフト・ショーやJAPAN SHOP・建築建材展に出展。
2011年にはニューヨーク・マンハッタンの展示会にも参加しました。
営業出身という前歴が、そのまま動きの速さになっています。
ポイント8:工芸の外に客がいる。
いまの取引先は建築・インテリア・飲食からファッションまで広がっています。
2024年にはFUMIKODAのアクセサリーがジル・バイデン大統領夫人に贈られました。
工芸品売場だけで戦っていないことが、工房を残した理由だと予想します。
以上はあくまで編集部の予想・推測です。
折井さんご自身がこう説明されたわけではありません。
経歴を時系列で見る
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1950年 | 祖父・折井竹次郎さんが折井着色所を創業 |
| 1970年 | 富山県高岡市に生まれる |
| 夜学生時代〜 | 東京のIT企業で営業として働く |
| 1996年(26歳) | Uターンして折井着色所に入社 |
| 1998〜1999年 | 売上が最盛期の50%以下に。月給15万円、父は無給 |
| 2000年ごろ | 1mm以下の圧延銅板への着色に成功。50種類以上の発色へ |
| 2008年 | 有限会社モメンタムファクトリー・Oriiを設立 |
| 2009年 | 高岡銅器 仕上部門の伝統工芸士に認定。展示会出展を開始 |
| 2011年 | ニューヨークの展示会に初参加 |
| 2024年 | FUMIKODAのアクセサリーがジル・バイデン大統領夫人へ |
並べて見えるのは、危機から技術開発までが2年ほどしかないということです。
1998〜99年に底を打ち、2000年ごろには圧延板への着色に成功しています。
沈んでいる時間が短いのが、この経歴の特徴です。
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Uターンを決めた理由
折井さんは高岡の生まれですが、
若い頃は東京のIT企業で営業をしていました。
夜学生の時代から働いていたといいます。
決断の言葉は残っています。
「長男で他に後継者いなく、職人になるには少しでも若いうちが良いのでは…」
――この思いでUターンを決めました。
1996年、26歳のときです。
家業は、祖父にあたる折井竹次郎さんが1950年に創業した折井着色所。
高岡銅器の着色を請け負う工場でした。
宏司さんは、その3代目にあたります。
売上半減、月給15万円からの2年
戻った直後に待っていたのは急降下でした。
1998年と1999年、売上は最盛期の50%以下。
自身の月給は15万円、父は無給で働いていました。
ここで折井さんが取った手は2つです。
ひとつは学び直し。
高岡市デザイン・工芸センターで、素材特性・原型づくり・鋳造方法・仕上げまでを習得しました。
家の中で覚えるのではなく、外へ出て体系的に入れています。
もうひとつが対象を変えること。
高岡銅器の着色は本来鋳物に施すものですが、
折井さんは1mm以下の圧延板への着色に挑みました。
薬品の配合を工夫し、炎の温度も細かく調整して、
2000年ごろに成功しています。
こうして生まれたのが斑紋ガス青銅色――通称「Oriiブルー」です。
番組情報では「折井ブルー」と書かれていますが、同じ色を指しています。
8月29日の放送情報
| 番組 | 日本のチカラ |
| 放送日時 | 2026年8月29日(土)午前5時20分〜5時50分 |
| 放送局 | テレビ朝日 |
| 主役 | 折井宏司さん(56) |
| 肩書き | 伝統工芸・高岡銅器の着色工場3代目 |
| 取り上げられるもの | 鮮やかな青が特徴の「折井ブルー」 |
番組情報では、生活雑貨やインテリア建材として
国内外から人気を集めていると紹介されています。
朝5時20分と早い枠ですが、
「日本のチカラ」は各地で挑戦する人を毎回1組追う番組です。
よくある質問
年齢は何歳ですか?
番組情報では56歳。
1970年生まれという情報とも合います。
出身はどこですか?
富山県高岡市。
高岡銅器の産地そのもので生まれ育ちました。
なぜ「3代目」なのですか?
初代は1950年に折井着色所を創業した折井竹次郎さんだからです。
宏司さんは3代目にあたります。
前の仕事は何ですか?
東京のIT企業で営業をしていました。
夜学生の時代から働いていたそうです。
伝統工芸士になったのはいつですか?
2009年です。
高岡銅器の仕上部門で認定を受けています。
工場は見学できますか?
モメンタムファクトリー・Oriiでは着色体験のプログラムが案内されています。
実施状況は時期で変わるため、公式の案内をご確認ください。
まとめ
- 1970年・富山県高岡市生まれ/放送時点で56歳
- 夜学生時代から東京のIT企業で営業
- 1996年・26歳でUターンして折井着色所へ
- 1998〜99年に売上が半分以下、月給15万円
- 2000年ごろ圧延板の着色に成功し「Oriiブルー」へ
- 放送は8月29日(土)朝5時20分/テレビ朝日
参照リンク
- doors TOYAMA「世界への道を切り拓いた『Oriiブルー』。折井宏司さんが歩んだ、危機から継承への道筋。」(生年・前職・Uターン・売上と月給・学び直し・展示会・ジル・バイデン夫人)
- Discover Japan「伝統工芸士 折井宏司 モメンタムファクトリー・オリイ」(26歳で高岡へ・2008年設立・2009年伝統工芸士)
- KOGEI STANDARD「モメンタムファクトリー・Orii」(創業年・創業者)
- 日経ビジネス「『自分が欲しいもの』作って売上高8倍 鋳物産地の家業継いだ社長」(2000年の技術開発・50種類以上の発色)
- 番組表.Gガイド「日本のチカラ」2026年8月29日(テレビ朝日番組情報・年齢)

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