【結論】麻生要一郎さんが台所に立ち始めたのは19歳。父を亡くして働きに出た母のためでした。しかも、おいしいと言われた記憶から始まっていません。
- 父が亡くなったのは麻生さんが19歳、大学受験の浪人中だった
- 母が副社長として会社へ出るようになり、夕飯づくりを引き受けた
- 母は正直な人で、口に合わないと静かに箸を置いた
- 母の入院中は、病院へ朝昼晩の食事を届けていた
- 最期は新島の宿をたたんで水戸に帰り、看取った
麻生要一郎さんには料理学校の経歴も、店での修業歴もありません。
それなのに撮影現場のお弁当が評判になり、本まで出すようになりました。
いったいどこで腕を磨いたのか。
本人がいろいろな取材で語ってきた話をつなぐと、答えが見えてきます。
- 料理を始めた本当のきっかけ
- お母さんはどんな人だったか
- ご家族に何が起きたかの流れ
- いまも守っている母との約束
【予想】習っていないのに上達したワケ
ここからは編集部の予想です。
麻生さんは調理師学校にも通っておらず、飲食店で修業もしていません。
それでも仕事として通用する家庭料理を作れるようになりました。
なぜでしょうか。
先に答えを書きます。
「おいしい」と言ってもらえなかった時間が、そのまま稽古になっていたと予想します。
理由を7つ並べます。
理由1:入口で止められなかった
いちばん古い記憶は小学校低学年。
母の帰りが遅く、冷やごはんでチャーハンを作り、鉄のフライパンが重くて熱くてやけどをしました。
母は「危ないからやめなさい」とは言わず、子どもでも扱えるフライパンを買ってきたそうです(やいづ善八)。
ここで禁止されていたら、いまの仕事はなかったでしょう。
理由2:祖母の手元を見ていた
もっと前をたどると、母方の祖父母の家に預けられていた時期があります。
台所で祖母が料理をするのを見ていたら「ちょっと、これ、切ってごらん」と手伝わされたのが始まりだったと語っています(ウェルビーイング100 by オレンジページ)。
教わったというより、見よう見まねでした。
理由3:動機が自分のためではなかった
本腰を入れたのは19歳ごろ。
父を亡くし、急に会社へ出ることになった母を助けたいという理由でした。
本人いわく「洗濯とか掃除とかはすごくよくできていたから、そこにはつけ入る隙がない。でも料理は毎日やること」。
役に立てる隙間を探して見つけたのが台所だったわけです。
理由4:母が嘘をつけない人だった
ここが分かれ目です。
母は息子の作った夕飯を少しだけ食べて、「ありがとう、でもごめんね、今日お昼が遅くっておなかすいてないわ」と微笑んで箸を置きました。
まずいとも苦手とも言いません。
それでも結果だけは正確に伝わります。
理由5:残った料理を自分で食べて調べた
落ち込んで終わらないのが麻生さんです。
「なにがまずかったんだろうと、残されたものを食べて分析しながら、鍛えられていったわけです」と話しています。
作る、置かれる、原因を探す、直す。
この回転が毎日続いていました。
理由6:目標にできる手本が家にあった
母の腕前について、麻生さんはこう語っています。
「母は父のために常にたくさんのおかずを用意していました。(中略)でも急に帰ってきても、ぱぱっとたくさんの種類のおかずが食卓に並ぶんですよ」。
「いったいどうやっていたんだろう、って今も思う」とも。
到達点が最初から見えていたのは大きいはずです。
理由7:数をこなす時期があった
母ががんで入院したとき、病院食を食べようとしなかったため、麻生さんは朝昼晩を全部届けていました。
食欲が落ちた人に毎日3食。
これはかなりの実践量です。
本人もこの経験を通じて「自分にとっては料理がすごく大切なこと」だと実感したと振り返っています。
ここまではあくまで編集部の予想です。
本人が「この7つで上達した」と説明したわけではありません。
ご家族の流れ
公開されている話を、順番に並べ直しました。
| 時期 | できごと |
|---|---|
| 子どものころ | 母方の祖父母の家で、祖母の料理を手伝う |
| 小学校低学年 | 冷やごはんでチャーハン。鉄のフライパンでやけどをする |
| 19歳 | 父が死去。浪人中で、アメリカへ行く準備をしていた最中だった |
| 19歳ごろ | 母が副社長に就任。麻生さんが夕飯づくりを担うようになる |
| 26歳 | 養父になっていた祖父を看取る |
| その後 | 母ががんで入院。病院へ朝昼晩を届ける |
| 宿の終盤 | 母の乳がんが再発。新島の宿を閉じて水戸へ帰る |
| 看取り | 母を見送る。「見送ったあとは呆然とするばかりで」 |
母とのやりとりは、麻生さんのエッセイにも何度も出てきます。
放送のあとに文章で追いたい方は、本を探してみてください。
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お母さんの人物像
麻生さんが語る母親像は、どの取材でもぶれません。
言葉数は少ないが、最後まで自分で決める人です。
父の死後は副社長として家業に出ますが、麻生さんいわく「そこはもう男の社会だし、本当にくたびれて帰ってくる」毎日でした。
それでも家事は完璧で、洗濯も掃除も「つけ入る隙がない」。
だから料理だけが息子の入り込める場所だった、という順番です。
最期についても、麻生さんは具体的に語っています。
「母は死を覚悟していたけれど、そのために僕が故郷に戻ることを実際は望んでいなかった。入院も、手術も退院も、すべて自分で決めて手配して、最後まで毅然としていました」(天然生活web)。
さらに「母は多くを口に出さない人。だから僕はいつも、母の心を感じとろうとしてきたし、お互い言葉にすることはなくても気遣いあって生きてきました」とも述べています。
父の死後は母ひとり子ひとりで家業の苦労をくぐってきた間柄でした。
食卓の花は母との約束
麻生さんの暮らしには、母から続く習慣が残っています。
食卓に花を飾ることです。
再春館製薬所の記事では、これが「亡くなった母との約束」と説明されています(再春館製薬所「私らしく。」)。
しかも麻生さんは、この花を心と体のバロメーターとしても使っているそうです。
きれいに生けられた日は、調子がいい証拠なのだとか。
約束を守るだけで終わらせず、自分の状態を測る目安にしている。
このあたりが麻生さんらしいところだと思います。
気をつけたいポイント
| まちがえやすい書き方 | 確認できる範囲 |
|---|---|
| 母に喜ばれたから料理の道へ | 反対。何度も箸を置かれたことが出発点になっている |
| 母は料理が不得意だった | むしろ手際がよく、父のためにいつも何品も用意していたと本人が語る |
| 母に呼ばれて水戸へ帰った | 母は「僕が故郷に戻ることを実際は望んでいなかった」と本人が明言 |
| 母の名前や命日が分かっている | 公表されていない。「8年前に見送った」(2024年1月の記事)という記述があるだけ |
| 19歳で家業を継いだ | 19歳は父の死。代表を降りたのは30歳 |
よくある質問
Q1. お父さんはどんな方でしたか?
水戸で建設会社を営んでいました。
仕事で家を空けがちだったそうです。
「男子かくあるべし」という考えの持ち主で、そのため麻生さんは子どものころ料理好きだと言い出せなかったと話しています。
麻生さんにアメリカ行きを勧めた矢先に亡くなりました。
Q2. ごきょうだいは?
いません。
各媒体のプロフィールで「ひとり息子」と紹介されています。
父の死後は「母ひとり子ひとり」だったと本人も語っています。
Q3. お母さんが亡くなったのはいつですか?
正確な時期は公表されていません。
2024年1月公開の記事に「実家で一緒に暮らした母を8年前に見送る」という記述があります。
単純に計算すると2016年ごろですが、記事の書き方が概算なので言い切れません。
Q4. おじいさまも看取られたのですか?
はい。
父の死後、麻生さんは祖父の養子になっており、26歳でその祖父を看取っています。
縁組の理由は「遺産のあれこれの関係らしい」と本人が説明しています。
Q5. 料理の先生はいましたか?
師匠にあたる人は確認できません。
祖母の手元を見て覚え、母に食べてもらいながら直していく形でした。
当時はネットも料理本もいまほど充実しておらず、毎食が手探りだったと語っています。
それが結果として修行になっていたようです。
Q6. 番組でお母さんの話は出ますか?
出る可能性は高いと思います。
NHKの紹介文に「母親の病の報せで再び人生の軌道を変え実家へ舞い戻り看病の日々…」という一文があるからです(NHK番組公式)。
この時期、愛猫チョビも母のもとで暮らしていました。
まとめ
麻生要一郎さんが料理を始めたのは、19歳で父を亡くし、働きに出た母を助けたかったからでした。
ところが母は正直な人で、口に合わないと「ごめんね、今日はおなかがいっぱいなの」と箸を置きます。
麻生さんは残った料理を自分で食べ、原因を探しては作り直していました。
褒められて伸びたのではなく、食べてもらえなかった時間が上達につながったわけです。
その母を、麻生さんは新島の宿をたたんで水戸へ戻り看取りました。
8月21日(金)のNHK Eテレ「ネコメンタリー」でも、この時期が触れられる見込みです。

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