【先に答え】13回防衛は、今も日本人男子で最多の記録です。
始まりは1977年1月30日、終わりは1980年10月12日。
期間にして約3年9か月です。
割り算すると3〜4か月に1回、王座を懸けてリングに上がっていたことになります。
しかも6試合は連続でKO決着。
世界王座6連続KO防衛という記録も、日本人世界王者では最多のまま残っています。
放送は8月31日(月)15時、NHK Eテレ「ハートネットTV 私のリカバリー」。
- 防衛は13回(1977年1月〜1980年10月)
- 階級はWBA世界ライトフライ級(当時の国内名はジュニアフライ級)
- 内訳はKO8回・判定5回
- 3度目〜8度目が6連続KO
- 7度目で当時の日本人最多を更新
- 12度目で同級の世界新記録(当時)
- 現役中に最優秀選手賞5回
- 放送は8月31日(月)15:00・NHK Eテレ
- 13試合の相手と決着
- 途中で塗り替えた記録
- 13回続いた理由の予想
- いま再現しにくい事情
「13回防衛」という言葉だけが有名になりがちです。
でも中身を開けてみると、そちらのほうが驚きます。
まずは当ブログの予想から。
【予想】倒す力と耐える力の両方があったから続いたとみる
ここからは当ブログの予想です。
3年9か月も王座を手放さなかったのは、パンチ力ひとつではなく、相手に応じて勝ち方を切り替えられたからだと考えます。
KOで終わらせる力と、15回を戦い抜く体力を同時に持っていたという見立てです。
根拠を10個挙げます。
根拠その1。決着が偏っていません。
13試合のうちKOが8、判定が5。
倒すだけでも守るだけでもない両刀の内訳です。
根拠その2。判定のうち2つが2-1です。
初防衛のハイメ・リオス戦と2度目のリゴベルト・マルカノ戦はスプリット判定でした。
落としかねない試合を拾ったことが13という数につながっています。
根拠その3。再戦では必ず倒しています。
リオスとは初防衛が2-1判定、5度目が13回KO。
マルカノとも2度目が2-1判定、7度目が7回KO。2回目は勝ち方が変わっています。
根拠その4。ボディ攻めが軸でした。
リオス戦ではどちらも顔面を打たれて両目を腫らしながら、ボディ中心で中盤以降に押し返しています。
後半に効く攻め方は、試合が長いほど有利です。
根拠その5。守りも評価されていました。
世界初挑戦の3回、相手の左フックを浴びたあと後続をすべてウィービングでかわして切り抜けています。
攻めるだけの選手ではありませんでした。
根拠その6。相手の国がバラバラです。
パナマ、ベネズエラ、タイ、フィリピン、韓国、チリ、メキシコ。
タイプの違う相手に勝ち続けるには、ひとつの型では足りません。
根拠その7。元王者を何人も退けています。
初防衛の相手は元WBA王者、8度目は元WBA世界フライ級王者のアルフォンソ・ロペス。
格のある挑戦者ばかりでした。
根拠その8。ペースが異常に速い。
3年9か月で13試合という間隔は、いまの世界戦の感覚だとありえない密度です。
回復と減量を両立し続けたことになります。
根拠その9。同時期の評価も伴っています。
現役中に最優秀選手賞を5度受けています。
記録が運の積み重ねではなかった証拠です。
根拠その10。階級が体に合っていました。
フライ級では体格差に苦しみましたが、新設のジュニアフライ級ではその不利が消えました。
13回は正しい階級に移ってからの記録です。
まとめると、13回は引き出しの多さの結果。これが当ブログの予想です。
記録からの推測であり、本人や関係者の分析ではありません。
13試合を全部出す
数字だけだと伝わらないので、全試合を並べます。
国籍まで見ると広がりが分かります。
| 防衛 | 日付 | 相手(国) | 決着 |
|---|---|---|---|
| 1 | 1977年1月30日 | ハイメ・リオス(パナマ) | 15回判定2-1 |
| 2 | 1977年5月22日 | リゴベルト・マルカノ(ベネズエラ) | 15回判定2-1 |
| 3 | 1977年10月9日 | モンシャム・マハチャイ(タイ) | 4回KO |
| 4 | 1978年1月29日 | アナセト・バルガス(フィリピン) | 14回KO |
| 5 | 1978年5月7日 | ハイメ・リオス(パナマ) | 13回KO |
| 6 | 1978年10月15日 | 鄭相一(韓国) | 5回KO |
| 7 | 1979年1月7日 | リゴベルト・マルカノ(ベネズエラ) | 7回KO |
| 8 | 1979年4月8日 | アルフォンソ・ロペス(パナマ) | 7回KO |
| 9 | 1979年7月29日 | ラファエル・ペドロサ(パナマ) | 15回判定3-0 |
| 10 | 1979年10月28日 | チト・アペラ(フィリピン) | 7回KO |
| 11 | 1980年1月27日 | 金龍鉉(韓国) | 15回判定3-0 |
| 12 | 1980年6月1日 | マルチン・バルガス(チリ) | 8回KO |
| 13 | 1980年10月12日 | ペドロ・フローレス(メキシコ) | 15回判定3-0 |
3から8までの6行がすべてKOになっています。
これが6連続KO防衛の実体です。
1977年10月から1979年4月まで、およそ1年半にわたりました。
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道中で更新された記録
13に届くまでにも、節目がいくつもありました。
| タイミング | 更新した記録 |
|---|---|
| 7度目 | 当時の日本人世界王者の最多防衛を更新(従来は小林弘さん・輪島功一さんの6度) |
| 8度目 | 3度目からの6連続KO防衛を達成 |
| 12度目 | ジュニアフライ級で世界王座防衛回数の世界新記録(当時) |
| 13度目 | 日本人男子世界王者の最多記録(現在も) |
ひとつ補足を。
女子を含めた日本人の防衛記録では小関桃さんに次ぐ位置になります。
「日本人男子で最多」と書かれるのは、そのためです。
いま同じ記録が出にくい理由
当時と今では前提がかなり違います。
比べてみると、数字の重さが変わって見えます。
まず試合の数。3年9か月で13度は年3〜4試合のペースです。
いまのトップ選手が世界戦を年2試合ほどに絞ることを思えば、倍近い頻度になります。
次に回数。当時の世界戦は15回制でした。
13試合のうち5つが15回まで戦い抜いています。12回制の現在とは消耗度が違います。
そしてルール。本人の証言によれば、当時はレフェリーが止めるまで打ち続けてよい時代でした。
ダウンした相手を殴り続けることもあった、と語っています。
Q&A
Q1. 13回防衛は今も記録なの?
はい。日本人男子世界王者の最多防衛として残っています。女子を含めると小関桃さんに次ぐ順位です。
Q2. ライトフライ級?ジュニアフライ級?
同じ階級を指しています。正式にはWBA世界ライトフライ級ですが、当時の日本国内ではジュニアフライ級と呼ばれていました。古い記事の表記が違うのはそのためです。
Q3. KOは何試合?
13回のうち8試合がKO、5試合が判定でした。3度目から8度目までは6試合続けてKOです。
Q4. 一番きわどかったのは?
記録上は2-1判定で切り抜けた初防衛(ハイメ・リオス戦)と2度目(リゴベルト・マルカノ戦)です。初防衛では2回にダウンを奪われ、両目を腫らしながら盛り返しました。ただし本人が「一番苦しかった」と語った試合は公表されていません。
Q5. なぜ14回目で止まった?
1981年3月8日、沖縄・具志川市(現うるま市)での凱旋試合でペドロ・フローレス選手に敗れて王座から陥落したためです。12回に2度目のダウンを喫し、セコンドからタオルが入りました。この試合を最後に引退しています。
Q6. 通算の戦績は?
24戦23勝(15KO)1敗。唯一の黒星が、王座から落ちた1981年のフローレス戦でした。アマチュア時代は62勝(50KO・RSC)3敗と記録されています。
Q7. 放送日時と局は?
2026年8月31日(月)15:00〜15:30、NHK Eテレ「ハートネットTV 私のリカバリー 沖縄のために闘った 具志堅用高」。きき手はLiLiCoさん、司会は廣瀬雄大さんです。
放送での扱いを予想する
番組情報には「13回連続世界王座防衛という前例のない記録」と書かれています。
記録そのものには触れられるでしょう。
ただし主題は「ふるさと沖縄への思い」。
技術の話よりも、何のために闘っていたのかが中心になるはずです。
この記事は放送前に公表されている記録にもとづくもので、番組の内容を保証するものではありません。
おさらい
具志堅用高さんの13回連続防衛は1977年1月から1980年10月まで。
いまも日本人男子で最多の記録です。
内訳はKO8試合・判定5試合。
3度目から8度目までは6連続KOで、こちらも日本人最多として残っています。
続いた理由は引き出しの多さ、というのが当ブログの予想です。
放送は8月31日(月)15:00・NHK Eテレ。きき手はLiLiCoさんです。

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