【結論】森重昭さんは、広島で被爆死した米兵捕虜12人の身元を約50年かけて突き止めた被爆者・歴史研究家です。
- 2026年3月14日に88歳で死去
- 8歳のとき、爆心地から約2.5キロの己斐町で被爆
- 会社勤めの傍ら、私財を投じて約50年調査を継続
- 2016年、広島を訪れたオバマ元米大統領と抱擁
- 2026年7月29日、名前が原爆死没者名簿に記帳された
- 森重昭さんが何を調べ、何を突き止めたのか
- オバマ元大統領との抱擁が起きた経緯
- 残されたままの「宿題」の中身
- 妻・佳代子さんが始めた活動
「森重昭」で検索した方が知りたいのは、この人が何をした人なのかとその仕事はこれからどうなるのかだと思います。
まず編集部の読みを示したうえで、確認できた事実を順に整理します。
【考察】森重昭さんの調査記録と遺志は、これからどう引き継がれるのか
森さんの調査は、一個人の記録から「公的に残る記録」へ移っていく。私はそう読みます。50年分の調査が家族の手元にとどまるのではなく、市や施設の記録として位置づけ直される段階に入ったと見ています。
理由の1つ目は、2026年7月29日に森さんの名前が原爆死没者名簿へ記帳されたことです(広島ホームテレビ)。森さんは生前、被爆死した米兵12人の遺影を国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に登録しています(テレビ新広島)。名前を記録に載せる側だった人が、記録される側に回りました。名簿は毎年読み上げられ、参照され続ける形式の記録です。森さんの仕事は、その名簿と結びついた文脈の中で語られていくと予想します。
2つ目は、妻・佳代子さんが「支える側」から「伝える側」へ移っていることです。佳代子さんはこれまで秘書兼マネジャーとして講演に同行してきましたが、2026年5月に岡山県玉野市で自身初の講演を行い、ホームページも新たに開設したと報じられています(読売新聞オンライン)。同じ報道では、長男の佳昭さんも遺志を継ぐ決意を語っています。話し手が1人から複数になれば、伝わる場所も増えます。
3つ目は、終わっていない調査が具体的に残っていることです。森さんは晩年、長崎の原爆で亡くなったオランダ兵2人の遺族を捜していました。この2人は登録されないまま、森さんは亡くなっています(テレビ新広島)。抽象的な理念ではなく、人数と国籍がはっきりした課題が残されている点が重要だと考えます。引き継ぐ側にとって、次に何をすればよいかが明確だからです。
この3点を合わせると、森さんの活動は「亡くなって終わった話」ではなく、記録として定着していく段階に入ったと読めます。個人の情熱に依存していた調査が、名簿・祈念館・講演・ホームページという複数の受け皿に分散していく。その移行が、これから数年かけて進むと予想します。
森重昭さんとはどんな人だったのか
森重昭さんは広島市西区出身の被爆者で、歴史研究家として知られました。己斐国民学校3年だった8歳のとき、爆心地から約2.5キロの己斐町で被爆しています(中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター)。
| 名前 | 森重昭(もり・しげあき)さん |
| 出身 | 広島市西区 |
| 被爆時 | 8歳/爆心地から約2.5キロの己斐町 |
| 肩書き | 被爆者・歴史研究家 |
| 死去 | 2026年3月14日/88歳 |
調査を始めたのは約50年前のことです。会社勤めを続けながら、私財を投じて独自に資料を集めました(時事通信)。研究機関に所属していたわけでも、公的な予算がついていたわけでもありません。一人の会社員が、勤務の傍らで40年から50年続けた調査という点が、この活動の性格をよく表しています。
その成果として、菊池寛賞、日本記者クラブ賞特別賞、谷本清平和賞を受賞し、2025年11月には中国文化賞も受けています(中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター)。
被爆死した米兵捕虜12人の身元を突き止めるまで
森さんが取り組んだのは、広島で被爆死した米兵捕虜の調査でした。原爆投下当時、広島には米軍の捕虜が収容されており、彼らも被爆によって命を落としています。ところが、その人数も名前も長く分からないままでした。
森さんは資料をたどり、被爆死した米兵が12人であることと、その一人ひとりの身元を突き止めました。さらに米国の遺族を探し出し、交流を重ねています(読売新聞オンライン)。数を確定させるだけでなく、遺族に届けるところまでを一人で担った活動でした。
- 被爆死した米兵捕虜12人の人数と身元を特定
- 米国の遺族を探し出し、交流を継続
- 1998年、私費で慰霊の銘板を設置(広島市中区基町)
- 12人の遺影を追悼平和祈念館に登録
- 著書『原爆で死んだ米兵秘史』を出版
1998年には、広島市中区基町のビル1階に私費で慰霊の銘板を設置しています(中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター)。銘板は中国憲兵隊司令部の跡地に設置されたと報じられています(テレビ新広島)。調査の成果を紙の上で終わらせず、現地に形として残そうとしたことが分かります。
調査の記録は著書『原爆で死んだ米兵秘史』にまとめられました。また、森さんの半生を追ったドキュメンタリー映画『ペーパーランタン』が制作され、各地で上映されています(KRY山口放送)。
オバマ元大統領との抱擁はなぜ起きたのか
森さんの名前が世界に知られたのは2016年5月です。米国の現職大統領として初めてオバマ氏が広島を訪問した際、森さんは平和記念公園での行事に招かれました。そして演説のあと、オバマ氏と抱擁を交わした場面が世界中に配信されました(中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター)。
この場面が特別だったのは、抱擁そのものよりも誰と誰の抱擁だったかにあります。原爆で家族や同級生を失った被爆者と、原爆を投下した国の大統領。その二人をつないだのが、米兵捕虜の遺族を探し続けた40年以上の調査でした。被害者と加害国という単純な線引きでは説明できない関係が、あの数秒に映っていました。
残された「宿題」と、妻・佳代子さんが始めたこと
森さんの調査は完結していません。晩年に取り組んでいたのは、長崎の原爆で亡くなったオランダ兵2人の遺族捜しでした。この2人は登録できないまま残されています(テレビ新広島)。広島の12人を終えたあと、対象を長崎へ、そしてオランダへと広げていた途中でした。
この続きを担おうとしているのが家族です。妻の佳代子さんは秘書兼マネジャーとして講演に同行してきた立場から、2026年5月に岡山県玉野市で自身初の講演を行いました。あわせてホームページも新たに開設したと報じられています(読売新聞オンライン)。長男の佳昭さんは横浜市で会社を経営しながら、遺志を継ぐ決意を語っています。
2026年8月6日には、テレビ新広島が「つたえるつなげる平和への一歩」として佳代子さんの活動を伝えました。原爆の日に合わせて放送されたことが、森重昭さんという名前が今あらためて検索されている背景にあります。
森重昭さんに関するQ&A
Q1. 森重昭さんはいつ亡くなりましたか
2026年3月14日に広島市内の病院で亡くなりました。88歳でした。死因は心臓停止と報じられています。
Q2. 何人の米兵を調査したのですか
広島で被爆死した米兵捕虜12人です。人数を確定させたうえで、一人ひとりの身元も特定しました。
Q3. オバマ元大統領と抱擁したのはいつですか
2016年5月、オバマ氏が米国の現職大統領として初めて広島を訪問した際です。平和記念公園での行事に招かれ、演説のあとに抱擁を交わしました。
Q4. 森重昭さんを扱った映画や本はありますか
著書に『原爆で死んだ米兵秘史』があります。またドキュメンタリー映画『ペーパーランタン』が森さんの活動を描いており、各地で上映会が開かれています。
Q5. 遺志を継ぐ人はいるのですか
妻の佳代子さんが2026年5月に初の講演を行い、ホームページも開設したと報じられています。長男の佳昭さんも遺志を継ぐ決意を語っています。残されたオランダ兵2人の調査が具体的な課題として残っています。
Q6. 記事内の考察は確定した情報ですか
いいえ。冒頭の【考察】は編集部の予想です。経歴・調査内容・日付は報道にもとづいていますが、今後どう引き継がれるかの部分は読み解きとして受け取ってください。
まとめ
森重昭さんは、被爆死した米兵捕虜12人の身元を約50年かけて突き止め、遺族へ届けた被爆者・歴史研究家でした。
- 8歳で被爆し、会社勤めの傍ら約50年調査を継続
- 被爆死した米兵捕虜12人の身元を特定し、遺族と交流
- 2016年5月、オバマ元大統領と抱擁
- 2026年3月14日に88歳で死去、7月29日に名簿へ記帳
- 長崎のオランダ兵2人の調査が残されている
名前を調べ、遺族を探し、記録に載せる。その作業を50年続けた人がいたという事実は、原爆の日の報道だけで終わらせるにはもったいない話です。残されたオランダ兵2人の調査がどう進むのかは、今後の続報を待ちたいところです。

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