【結論】高岡銅器の始まりは1611年に呼ばれた7人の鋳物師です。
そこから400年あまり。
いまでは日本の銅器生産の約95%、
全国の銅像の9割以上を、この富山県高岡市が作っています。
- 1609年、前田利長が高岡城に入り町を開く
- 1611年、金森弥右衛門ほか7人の鋳物師を招く
- 職人町の金屋町は火災の危険から川の対岸へ
- 銅器のシェアは全国の約95%、銅像は90%以上
- 1975年2月17日、国の伝統的工芸品に指定
- 登場するのは8月29日(土)朝5時20分・テレビ朝日
- 高岡銅器400年のはじまり
- 金屋町という職人町の意味
- 分業制と着色という仕事
- 8月29日の放送との関係
テレビ朝日「日本のチカラ」の2026年8月29日(土)朝5時20分の回に、
折井宏司さん(56)が登場します。
番組情報の肩書きは「伝統工芸・高岡銅器の着色工場3代目」。
その産地の話を先にしておきます。
【予想】なぜ一つの市が銅器を独占できたのか
ここからは編集部の予想です。
銅器の約95%、銅像の9割以上が一つの市で作られている。
ここまで偏った産業は、日本でもそう多くありません。
結論を先に言うと、
「町ができる時点で産業が組み込まれていたから」だと予想します。
ポイント1:偶然ではなく政策だった。
1609年に高岡城へ入った加賀藩主前田利長は、
町の繁栄のために1611年に鋳物師を呼び寄せています。
自然にできた産地ではなく、意図して置かれた産業です。
ポイント2:最初から集団で移された。
招かれたのは金森弥右衛門ほか7人。
1人の名人ではなく、複数の職人がまとめて動いています。
技術が町単位で継承される形が最初から用意されました。
ポイント3:住む区画を先に決めた。
移り住んだのは、いまの高岡市金屋町。
資料によれば千保川を挟んで城下町と向かい合う場所です。
職人が固まって住む町が、はじめから区切られていました。
ポイント4:離した理由が「火」だった。
川の対岸に置かれたのは、鋳物産業に火災の危険があったためです。
危ないから遠ざけた、という話ですが、
裏返せば火を大きく扱ってよい区画を与えたということでもあります。
ポイント5:工程が分業になっている。
原型・鋳造・仕上げ・着色・彫金を、それぞれ別の工房が担当します。
折井さんの工房が「着色工場」と呼ばれるのはそのためです。
1社で全部やらないぶん、各工程が深くなります。
ポイント6:分業は距離が近くないと回らない。
工程ごとに物を運ぶので、工房が離れていると成立しません。
近くに全部そろっていること自体が、後発には真似しにくい条件です。
これが産地の強さになっています。
ポイント7:銅像という大仕事を取った。
全国の銅像の90%以上が高岡製とされます。
銅像は1体が大きく、工程も多い仕事です。
これを回せる産地だという実績が、次の注文を呼びます。
大きい仕事ほど、頼み先は前例のある土地に集まります。
ポイント8:国の指定を早く受けた。
伝統的工芸品への指定は1975年(昭和50年)2月17日。
制度の最初期にあたります。
「高岡といえば銅器」という認識が、公的にも早く固まりました。
以上はあくまで編集部の予想・推測です。
公的な資料がこの8点で説明しているわけではありません。
1609年から400年の流れ
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1609年(慶長14年) | 前田利長が高岡城に入城し、高岡の町を開く |
| 1611年(慶長16年) | 礪波郡西部金屋村から金森弥右衛門ほか7人の鋳物師を招く |
| 江戸時代 | 鍋や釜などの日用品から、仏具や美術鋳物へ広がる |
| 1950年 | 折井竹次郎さんが折井着色所を創業 |
| 1975年2月17日 | 国の伝統的工芸品に指定される |
| 1996年 | 折井宏司さんが26歳でUターンし家業へ |
| 2000年ごろ | 1mm以下の圧延銅板への着色に成功 |
| 2026年8月29日 | テレビ朝日「日本のチカラ」で高岡の着色工場が紹介される |
並べてみると、産地の歴史のほうが圧倒的に長いことが分かります。
折井着色所の創業は1950年。
400年の産地から見れば、まだ後半のごく一部にすぎません。
▼ 真鍮や銅のアクセサリーを見るならこちら
※高岡の工房の製品とは限りません。金属のものを探す入口です。
金屋町という職人町
鋳物師たちが入ったのは、いまの高岡市金屋町です。
もとは礪波郡の西部金屋村から移ってきました。
場所の選び方に理由があります。
金屋町は千保川を挟んで高岡城下町と向かい合う位置。
これは鋳物産業に火災の危険があったからだとされています。
つまり、川一本ぶんだけ離して隣に置いたということです。
遠すぎては町の産業になりませんし、
近すぎては城下が燃えます。
その中間が金屋町でした。
「着色」はどんな工程か
高岡銅器の特徴は分業制です。
1社で完成させるのではなく、工程ごとに別の工房が担当します。
| 工程 | 内容 |
|---|---|
| 原型 | もとになる形をつくる |
| 鋳造 | 溶かした金属を型に流し込む |
| 仕上げ | バリを取り、面を整える |
| 研磨・彫金 | 磨いたり、模様を彫ったりする |
| 着色 | 薬品と熱で表面に色を出す |
折井さんの工房が担うのが、いちばん最後の着色です。
ペンキを塗るのではなく、
薬品と熱で金属そのものを変色させます。
伝統的な技法には、
煮色(硫酸銅と炭酸銅の混合液)、
鉄漿(日本酒と食酢に鉄屑を漬けた溶液)、
糠焼(米ぬかに食塩・硫黄を混ぜて焼く)などがあります。
折井さんはこれを応用し、
本来は鋳物に施す着色を1mm以下の圧延板へ持ち込みました。
そこから生まれたのが「折井ブルー」(斑紋ガス青銅色)です。
8月29日の放送情報
| 番組 | 日本のチカラ |
| 放送日時 | 2026年8月29日(土)午前5時20分〜5時50分 |
| 放送局 | テレビ朝日 |
| 主役 | 折井宏司さん(56)/高岡銅器の着色工場3代目 |
| 紹介されるもの | 鮮やかな青が特徴の「折井ブルー」 |
番組情報では、生活雑貨やインテリア建材として国内外から人気と紹介されています。
400年続く産地に、新しい使い道が生まれているという話です。
よくある質問
高岡銅器はいつ始まりましたか?
1609年の高岡開町がきっかけで、
1611年に7人の鋳物師が招かれたのが始まりです。
どのくらいのシェアがありますか?
日本の銅器生産高の約95%、
全国の銅像の90%以上とされています。
出荷額・販売額も全国一です。
金屋町はなぜ川の向こうにあるのですか?
鋳物産業に火災の危険があったためとされています。
千保川を挟んで城下町と向かい合う位置に置かれました。
国の指定はいつですか?
1975年(昭和50年)2月17日に、
経済産業大臣指定の伝統的工芸品となりました。
着色は塗装のことですか?
違います。
薬品と熱で金属そのものを変色させる工程です。
色が金属の一部になります。
町歩きはできますか?
金屋町には石畳の町並みが残っています。
工房によっては体験プログラムもあります。
時期で変わるため、公式の案内をご確認ください。
まとめ
- 高岡銅器は富山県高岡市の鋳物産地
- 1609年の開町と1611年の鋳物師招致が起点
- 金屋町は火災の危険から千保川の対岸に置かれた
- 銅器の約95%、銅像の90%以上が高岡製
- 分業制の最後の工程が「着色」
- 放送は8月29日(土)朝5時20分/テレビ朝日
参照リンク
- Wikipedia「高岡銅器」(1609年の入城・1611年の招致・7人の鋳物師・千保川と火災・シェア・1975年の指定)
- 中川政七商店の読みもの「『高岡銅器』とは。日本の銅器づくりの9割を支える町の歴史と今」
- 伝統工芸高岡銅器振興協同組合「高岡銅器とは」
- KOGEI STANDARD「モメンタムファクトリー・Orii」(煮色・鉄漿・糠焼/創業1950年)
- 番組表.Gガイド「日本のチカラ」2026年8月29日(テレビ朝日番組情報)

コメント