【結論】上重聡さんがプロ野球へ進まなかった理由は「松坂大輔を見てしまったから」でした。高校卒業時に巨人から誘いを受けながら、立教大学への進学を選んでいます。
1998年夏の甲子園、延長17回の死闘でPL学園のマウンドに立った投手が、なぜプロの世界へ進まなかったのか。本人がテレビ番組で語った内容と、その後の歩みを整理します。
- 発言はBS-TBS「関口宏の三人寄れば」2026年7月26日放送分
- 高校卒業時に巨人から話を受けていたと本人が明かした
- 理由は「プロは松坂みたいな怪物が行くところ」という自己評価
- 進学先は立教大学、その後2003年に日本テレビへ入社
- 現在はフリーアナウンサー(2024年3月末に日本テレビを退社)
【考察】上重聡がプロへ行かなかった理由は?
「松坂を見てしまった」という一言は謙遜ではなく、PL学園の3年間で積み上がった自己評価の到達点だったと私は読みます。延長17回の一試合で急に決まった話ではなく、高校入学の時点から続いていた判断だと予想します。
理由1:入学時点の評価が「7人中6番目」だった
上重さんはフジテレビ系「ジャンクSPORTS」で、PL学園入学時のスカウトとのやり取りを明かしています。「同級生、7人投手を取るんですけど『君は6番目だから、3年間で1回でもユニホームを着られたらラッキーと思って入れますか?』って言われました」という内容でした(スポーツ報知)。ここが出発点です。エース候補として迎えられた選手ではなく、下から数えたほうが早い立ち位置からのスタートでした。そこからエースまで駆け上がった経験は、同時に自分の力を冷静に測る癖を育てたと考えられます。
理由2:松坂大輔の250球を最も近い場所で見た
1998年8月20日の準々決勝、松坂投手は250球を投げ切って横浜を勝利へ導きました(週刊ゴルフダイジェスト)。相手のマウンドから、その全球を見ていたのが上重さんです。テレビの向こうではなく、同じ日・同じ球場・同じ条件で比べられる場所にいました。この比較の精度が、判断を決めたと私は見ます。「怪物」という言葉は評論ではなく、実測に近い感覚だったはずです。差が明確に見えたからこそ、逃げではなく設計として大学を選んだと予想します。
理由3:言葉が「断念」ではなく「鍛え直し」だった
本人の説明は「もう1回大学で鍛えて」という表現でした(スポニチアネックス)。プロを諦めた言い方ではありません。4年後に届く位置まで自分を引き上げる前提の進学だったと読めます。18歳で巨人からの誘いを見送る判断は、当時としても重い決断でした。それでも受けなかったのは、入って埋もれるより、届いてから入るという順序を選んだからだと考えます。結果として上重さんは野球ではなくアナウンサーの道へ進みますが、判断の筋道そのものは一貫しています。
3つを並べると、進学は甲子園の一試合で生まれた感情の結論ではないと分かります。入学時の低い評価、3年間の積み上げ、そして最後に見た250球。自分の現在地を測り続けた結果として出てきた選択だったと私は予想します。
ここまでは編集部の予想であり、断定ではありません。本人が語ったのは番組内での説明までであり、当時の心境の細部までは公表されていません。
上重聡が語ったプロ入りを見送った理由
この話が出たのは、BS-TBS「関口宏の三人寄れば」2026年7月26日放送分です(スポニチアネックス)。プロへ進まなかった理由を問われた場面での発言でした。
上重さんはまず「やっぱり松坂を見てしまったというのが1つありますね」と切り出しました。続けて「実は高校卒業してジャイアンツさんからお話をいただいたんですが、でも『プロは松坂みたいな怪物が行くところなんだ』と思うと自分はそこまで達していなかったので『もう1回大学で鍛えて』と思って」と、立教大学への進学を選んだ経緯を説明しています。
松坂大輔との延長17回とはどんな試合だったのか
上重さんの名前が語られるとき、必ず添えられるのが1998年夏の甲子園です。1998年8月20日の準々決勝、横浜高校とPL学園が延長17回まで戦いました(週刊ゴルフダイジェスト)。
| 日付 | 1998年8月20日 |
| 大会・回戦 | 夏の甲子園・準々決勝 |
| 対戦 | 横浜高校対PL学園 |
| 試合結果 | 延長17回の末に横浜が勝利 |
| 横浜の投手 | 松坂大輔(250球を投げ切る) |
| PL学園の投手 | 上重聡(当時3年・エース) |
9回を終えて5対5。11回、16回と点を取り合い、延長17回表に横浜が2ランで2点を加えて決着しました。松坂投手が投げた250球という数字は、現在の球数制限では起こり得ない記録です。高校野球史に残る一戦として語り継がれています。
この試合はPL学園にとって敗戦でしたが、上重さんの投手としての評価を高めた試合でもありました。あの舞台に立った経験が、後のアナウンサー人生でも語られ続けています。
上重聡の現在は?フリーアナウンサーとして活動
立教大学へ進んだ上重さんは、2003年に日本テレビへアナウンサーとして入社しました(講演依頼.com)。「ズームインサタデー」の5代目総合司会、「スッキリ」のMC、「シューイチ」など、朝の情報番組を長く担当しています。
| 生まれ | 1980年 |
| 出身 | 大阪府八尾市 |
| 学歴 | PL学園高校 → 立教大学 |
| 日本テレビ | 2003年入社/2024年3月末に退社 |
| 現在 | フリーアナウンサー |
| 主な担当番組 | ズームインサタデー(5代目総合司会)、スッキリ、シューイチ |
2024年3月末で日本テレビを退社し、現在はフリーアナウンサーとして活動しています(スポーツ報知)。アナウンサー歴は20年を超えました。
野球以外の顔もあります。上重さんは競技ゴルフに挑戦しており、2024年に報じられた時点では大阪オープンで松坂さんと同じ大会に出場していました。甲子園の一戦から四半世紀を経て、舞台をゴルフに移して再び向き合った形です(週刊ゴルフダイジェスト)。
また、2026年8月13日には大阪の毎日新聞ビル オーバルホールでトークショーが予定されています。開場13時30分・開演14時、主催は株式会社Star to Lineで、ゲストに京都成章高校の元主将である澤井芳信さんが招かれます(共同通信PRワイヤー)。あの試合の舞台裏が語られる場になりそうです。
上重聡に関するQ&A
Q1. 上重聡はプロ野球のドラフトで指名されたのですか?
本人が語ったのは「高校卒業してジャイアンツさんからお話をいただいた」という内容までです。指名の有無について本人は言及していません。ここは発言の範囲を超えないほうが安全です。
Q2. なぜ立教大学を選んだのですか?
「もう1回大学で鍛えて」という考えからでした。プロは松坂大輔さんのような選手が行く場所であり、自分はまだ届いていないと判断したためだと説明しています。大学を選んだ理由の詳細までは語られていません。
Q3. 上重聡の現在の仕事は何ですか?
フリーアナウンサーです。2003年に日本テレビへ入社し、2024年3月末に退社しました。在籍中は「ズームインサタデー」「スッキリ」「シューイチ」などを担当しています。
Q4. PL学園時代はエースだったのですか?
はい。3年時にエースとして甲子園のマウンドに立ちました。ただし入学時の評価は「投手7人中6番目」であり、そこから序列を上げてエースへ到達した経緯があります。
Q5. 松坂大輔との関係は今も続いていますか?
はい。2人は競技ゴルフの場で再び顔を合わせました。2024年に報じられた大阪オープンでは、上重さんが90、松坂さんが71というスコアでした。甲子園から舞台を変えた関係が伝えられています。
Q6. この記事の考察は事実ですか?
いいえ。【考察】の見出しが付いたセクションは編集部の予想であり、本人が語った内容ではありません。事実として扱えるのは、番組での発言と複数媒体が一致して報じた経歴のみです。
今後の見通し
直近では2026年8月13日のトークショーが控えています。テーマは「あの舞台の裏側とその先へ」で、甲子園の一戦とアナウンサーとしての歩みが語られる構成です。番組では時間の制約で触れられなかった部分が明かされる可能性があります。
夏の甲子園シーズンに入ると、上重さんの名前は再び検索されます。1998年の延長17回は、毎年この時期に語り直される題材です。フリーとなった現在は、解説や中継の場での起用も増えていく流れが見込まれます。
競技ゴルフも語られる要素の一つです。2024年の報道時点でベストスコア71と伝えられた腕前であり、松坂さんとの関係は野球以外の場でも注目を集めてきました。現在の活動状況については新しい発表を待ちたいところです。
まとめ
上重聡さんがプロ野球へ進まなかった理由は、本人の言葉で「松坂を見てしまった」ことにありました。巨人から話を受けながら、「プロは松坂みたいな怪物が行くところ」と考え、立教大学で鍛え直す道を選んでいます。
その判断の背景には、PL学園入学時に投手7人中6番目と評価された経験があります。自分の位置を測る目が早くから育っていた選手でした。1998年8月20日の準々決勝で、松坂投手の250球を相手のマウンドから見た経験が、その目を確かなものにしたと考えられます。
現在はフリーアナウンサーとして活動し、2026年8月13日には大阪でトークショーが予定されています。28年前の一戦は、今も語られ続けています。

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