PL学園野球部がなくなったのはいつ?休部2016年・廃部2017年の違いを年表で整理

    【結論】PL学園野球部がなくなった日は1つではなく、2016年夏と2017年3月の2段階です。

    @shougun0315

    なぜ史上最強だったPL学園野球は無くなってしまったのか#野球 #甲子園

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    • 2016年夏=最後の公式戦。ここで休部になりました
    • 2017年3月29日=高野連へ脱退届。これが事実上の廃部です
    • 甲子園から遠ざかっていたのは2009年夏から。休部の7年前です
    • 最後の夏の登録はわずか12人2015年以降は新入部員ゼロでした
    • 優勝は春3回・夏4回の計7回。すべて1978〜1987年に集中しています

    夏になると必ず名前が挙がるのがPL学園です。
    ただ「いつなくなったのか」を調べると、
    2016年と書く記事も2017年と書く記事もあって混乱します
    これはどちらも間違いではありません
    段階が2つあるからです。

    目次

    【考察】部員12人でも2016年夏まで続けられたのはなぜ?

    ここからは編集部の予想です。
    新入部員が2年続けてゼロになった時点で、
    PL学園野球部はいつ止めてもおかしくない状態でした。
    それでも2016年夏まで引き延ばされたのは、「在校生を最後まで卒業させる」ための逆算だったと私は読みます。

    1つ目の根拠は数字の並びです。
    最後の新入部員が入ったのは2014年度
    この学年が3年生になるのが2016年度で、
    引退する夏がちょうど2016年夏の大阪大会にあたります。
    休部の時期は偶然ではなく、最後の学年の卒業に合わせた線引きと見るのが自然です。

    2つ目は脱退の時期です。
    日本高野連への脱退届が出されたのは2017年3月29日で、
    年度が変わる直前にあたります。
    在籍する部員がいる間は加盟を残しておく必要があった——
    そう考えると、2016年夏の休部と2017年3月の脱退が半年以上あいている理由が説明できます。

    3つ目は、学校側が募集停止の理由に「指導体制」を挙げていたことです。
    2014年の募集停止で掲げられたのは、暴力でも処分でもなく「専任監督が不在で十分な指導体制を組めない」という説明でした。
    この理屈は「新しく入れる生徒には責任を持てない」という意味であって、
    すでに入っている生徒を追い出す理屈にはなりません
    だから新規はゼロ、在校生は最後までという運用になったのだと考えます。

    4つ目は人数そのものです。
    最後の夏の登録は12人で、
    硬式野球の守備位置9つに対して控えが3人しかいない編成でした。
    それでも試合は成立します
    逆に言えば、あと3人欠ければ出場すらできなかったわけで、
    ぎりぎりの人数で最後の大会に間に合わせたという見方ができます。

    背景には母体であるPL教団の財政悪化もありました。
    Number Webは信者数の激減で財政が逼迫し、全国に200以上あった教会の統廃合が進んだと伝えています(Number Web)。
    お金の面ではもっと早く畳む選択肢もあったはずです。
    それでも12人で最後の夏を戦わせた——
    ここは採算とは別の判断が働いたと私は見ています。

    まとめると、休部までの2年間は「畳めなかった」のではなく「畳む日を決めていた」期間だった、というのが私の読みです。
    2014年10月の募集停止発表の時点で、
    最後の公式戦が2016年夏になることは計算できていたはずです。
    だからこそ脱退届は在校生がいなくなる年度末に出されました。
    数字の並びがきれいに揃いすぎている——そこが根拠です。
    以上はあくまで予想で、学校が公式に意図を説明したものではありません。

    休部・廃部・脱退は何が違うのか

    混乱の原因は3つの言葉が混ざっていることです。
    まずここを言葉の意味から分けて整理します。

    言葉意味PL学園の場合
    休部部としては残るが活動を止める2016年夏の敗戦後
    脱退高野連の加盟団体から外れる2017年3月29日
    廃部部そのものを無くす脱退により事実上の廃部

    ポイントは、PL学園が「廃部します」と宣言したわけではないことです。
    高野連を脱退すると公式戦に出られなくなります
    硬式野球部にとって公式戦に出られない状態は活動の終わりを意味するため、
    報道では「事実上の廃部」という表現が使われました。

    年表で見るPL学園野球部の最後の4年間

    時期出来事
    2013年2月23日研志寮で部内暴力。下級生が救急搬送
    2013年4月9日2月24日から6か月の対外試合禁止が決定
    2013年4月28日監督が退任。以後専任監督は不在
    2014年10月10日2015年度からの新入部員募集停止を発表
    2015年5月26日2016年度も受け入れ停止が判明
    2016年夏大阪大会に12人で出場し初戦敗退
    2017年3月29日高野連へ脱退届を提出・受理

    処分そのものは2013年8月23日で明けています
    期間は6か月で、2月24日からという起算でした(日本経済新聞)。
    つまり2014年以降のPL学園は、処分ではなく人手の問題で止まっていたことになります。

    甲子園から消えていたのは2009年夏から

    見落とされやすいのが、甲子園と縁が切れたのは休部よりずっと前という点です。
    最後の出場は2009年夏の第91回大会で、
    この時点で3年ぶり17回目の出場でした。

    項目回数・年
    春の優勝3回(1981年・1982年・1987年)
    夏の優勝4回(1978年・1983年・1985年・1987年)
    春の出場20回
    夏の出場17回
    最後の出場2009年夏(第91回大会)

    優勝7回がすべて1978〜1987年に収まっている点も特徴です。
    黄金期はきっかり10年間で、
    桑田真澄・清原和博のKKコンビが在籍したのはその真ん中にあたります。
    「史上最強」の印象はこの10年でつくられたもので、
    その後の20年余りはすでに別の時期だったわけです。

    出場回数・優勝年は高校野球データベースの記録によります。優勝が春夏通算7回であることはNumber Webの記述とも一致します。

    SNSで語られる説明の、どこまでが確認できるか

    3年神様、2年平民、1年奴隷」という言い回しは、
    ネットの誇張ではありません
    Number Webも研志寮に厳格な上下関係があり、意図が不明なルールがいくつも存在したと書いています(Number Web)。

    一方で、個々の逸話は事情が違います。
    先輩のために肉を洗った、リモコンの権利は上級生のもの——といった話は
    OBの語りとして広まったもので、
    一次資料で確かめられる種類の情報ではありません。
    この記事では「そう語られている」という範囲にとどめます

    逆に確認できる事実もあります。
    2001年には先輩が後輩をパイプ椅子で殴打した件が夏の抽選会直前に発覚し、
    3年生は最後の大阪大会を出場辞退しました。
    暴力が2013年だけの単発ではなかったことは、記録として残っています。

    PL学園についてよくある質問

    Q1. 結局「なくなった年」はいつと言えばいいですか?

    活動が止まった年を指すなら2016年
    部として無くなった年を指すなら2017年です。
    会話では「2016年の夏を最後に休部、翌春に廃部」と言えばどちらとも食い違いません

    Q2. 学校はいまも残っているのですか?

    残っています
    ただし規模は大きく縮んでおり、
    Number Webは高校の全校生徒数が39人と伝えています(Number Web)。
    1学年あたり十数人という規模です。

    Q3. 部員募集を止めたのは処分のせいですか?

    処分ではありません
    対外試合禁止は6か月の期限付きで、2013年8月に明けています
    学校が挙げた理由は「専任監督が不在で十分な指導体制を組めない」でした。

    Q4. 野球部が復活する可能性はありますか?

    予定は公表されていません
    2017年に高野連を脱退しているため、
    再開するには加盟の手続きからやり直す必要があります。
    生徒数の規模を踏まえると、現時点で見通しを語れる材料はありません

    Q5. この記事の考察は事実ですか?

    考察は編集部の予想です。
    年表の日付や優勝回数は出典を付けた事実ですが、
    「最後の学年の卒業に合わせて休部の時期が決まった」という読みは予想にあたります。
    学校が公式に意図を説明したものではありません

    今後、PL学園の名前はどこで残るのか

    チームが無くなっても、PL学園の名前は毎年の夏に必ず出てきます
    優勝7回という記録は大阪府の高校野球史に残り続けるためです。
    春夏合わせて37回の出場という数字も、
    更新されないまま固定された記録になりました。

    もう1つ残るのがOBの系譜です。
    桑田真澄・清原和博をはじめ、
    PL出身者は指導者・解説者として球界に散らばっています
    学校のグラウンドは静かでも、名前は現場で語られ続けている——
    いまのPL学園はそういう位置にあると言えます。

    まとめ

    PL学園野球部がなくなった時期は、
    2016年夏の休部2017年3月29日の高野連脱退という2段階で理解すると混乱しません。
    途中の年表を見れば、2013年の暴力事件から3年以上かけて閉じていったことが分かります。

    そして甲子園から遠ざかっていたのは2009年夏からです。
    優勝7回が1978〜1987年の10年に集中している以上、
    「最強のまま突然消えた」わけではありません
    年表で見ると、終わりは段階的に訪れていたことが読み取れます。

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